ガロからの転載です15年前、九州で空手バカ一代を読んで感化され、お袋に20万円もらって東京にやってきました。
はじめまして川保です。

押忍が挨拶
色んな雑誌やらムックやらの編集者に発注されて文章書いたり、連載持ったりしてみたものだが、こんなフルッてるタイトルついたのは初めてです。みなさんよろしく。
さて今回は第一回目という事なので、まず俺が育って来た世界というか、環境というか、そういうものに焦点を当ててみたい。けっこうおもしろいよ。
空手の世界では返事が『押忍』だ。『オス』と読む。入門したての新入りなどは先輩に何か言われて返事をする時つい『ハイ』などと言ってしまうものだが、そういう時、「ハイじゃないオスだろ!」と先輩が注意してくれる。だいたい3カ月も空手の世界にいれば自然と返事が『押忍』になるから心配ないのだが、注意しなくてはいけないのが、ついシャバでもシロウトに向かって『押忍』と返事してしまう点だ。会社の人や、趣味の友達、恋人、女房などについ『押忍』と言ってしまい驚かれたりする。特にこれは空手の世界にドップリ漬かっている人がやりやすいが、個人差もある。
一般的に『押忍』などというと体育会系武道の挨拶だと思われているかもしれないが、俺の知る限り『押忍』と挨拶するのは空手と応援団だけだと思うのだがどうだろうか?
高校時代、柔道の授業で先生が出欠を取っている時、級友の吉井がふざけて『オーッス』と返事したら担当の下川先生がカンカンになって『キサマーッ』と吉井に近づいたかと思うと往復ビンタ、もんどり打った所を蹴りを数発たたき込みながら、『私は長年、柔道を教えて来たが、押忍などという返事をした生徒はお前が初めてだ!ふざけやがって!貴様!』そして再び往復ビンタと蹴りを数発。
俺などはそれを見ながら『なんだ、柔道は挨拶がオスかと思っていたが、どうやら違うらしいな』といささか驚いたのだ。そして『やはりいくら柔道の先生でも怒った時は打撃技なんだな』とも思った。
話が脱線したが、空手を数年やっていて慣れてきた奴が『オシッ』とか『ウッスッ』などと変な発音でいう場合があるが、これは先生によっては怒られる場合がある。
動作としては、胸の前で左右の腕をクロスさせながら腰の方に引く。これは『十字を切る』という動作(パターン1)なのだが、単に腰骨のあたりで握りこぶしを握ったまま、約2センチぐらい上下させる簡略化されたバージョン(パターン2)もある。





それにしてもこの押忍という言葉、非常に便利なのだ。イントネーションの使い方によってそのバリェーションは無限であり、空手の世界ではこの『押忍』という言葉ひとつあれば大概の意志疎通が出来てしまう。ただ注意しなければならないのは、そういう挨拶以外の『押忍』が使えるのは下の者に限られるということ。つまり先輩や先生に対して後輩、もしくは生徒が受け身的に使う表現なのだ。
これから思いつくままにそれら押忍表現をここに挙げてみようと思う。
1、疑問の押忍 上の者が意味不明な事を言ったり、声が小さくて何を言っているか聞こえない場合、回りが騒がしくて聞き漏らした場合、もう一度言ってくれという意志を伝える時に使う『押忍』。この時、眉毛を少し「ハの字」にしながらどちらかの耳を少しだけ相手側に向けるとなお良い。
2、喜びの押忍 説明は必要ない。嬉しい時、顔には満面の笑顔がよく似合う『押忍』。
3、拒絶の押忍 無理難題を吹っかけられた時の『押忍』。嫌なことをされそうになった時も使う。『それは死んでもやりたくないです』とかなり強い拒絶を表現する時の『押忍』は相手の目を真っすぐみる。ただこの拒絶の『押忍』は、じゃれあったり、ふざけあったりして先輩後輩の中がほとんど無礼講状態のときのみ使う事ができるもので、通常コレをやるとまずい。
4、決心の押忍 何か重要な任務を言い付けられたり、ここ一番、気合が必要なときに、かなり大きな声で言う『押忍』。
5、落胆の押忍 ガッカリした顔で、頭をゆっくり振りながら下を向いて言う『押忍』。
6、疑惑の押忍 『その話は本当ですかい?』上の者が自分をからかって言っているのではないかと疑いを持った時に使う『押忍』。顔は少しニヤついていたほうが効果的。
7、納得の押忍 相手の話を良く理解した場合。相手の言っていることに共感、もしくは同調した時の『押忍』。また、何かを命令されてその通りに従いますと言いたい時にも使う。この時、大きく十字を切りながらやると効果的。
8、ねぎらいの押忍遠くからやって来た先輩や先生に対して使う『押忍』。十字を切りながら腰を少し後方に折り曲げながら言うと良い。
9、尊敬の押忍あこがれの先輩、先生などに声をかけられた時、ウルウルとした目で言う『押忍』。
主な所はこの辺りか。これらは無限に細かいバリェーションがあると思われ、またその押忍を言う人の個性などもニュアンスに関係してくる。もちろん人によっては全くこれら『押忍』の使い方をしない人がいることも確かだ。
注目したいのは怒りの『押忍』がないという事。考えてみれば当たり前の事である。下の者が上の者に怒りの感情を見せるなどと言うことは空手の世界ではまずあり得ない。『押忍』の世界には怒りが存在しないのだ。まさに押して忍ぶ。この言葉には『己の存在を押し殺して耐え忍ぶ』というニュアンスがあるのではないかと俺は解釈しているのだがどうだろうか?
次の機会にこの押忍精神が一人の人間の行動をどのように左右するのか書いてみたい。
川保天骨プロフィール
1970年 北九州小倉生まれ。写真家。12年に渡る格闘技修行の末、大道塾北斗旗中量級で優勝。その後、練習中に蹴りを頭部に受けて失神。その時に見た幻覚が原因でサイケデリック呪術ロックバンド『太陽肛門』のベース担当になる。現在、総合プロダクション玉門の代表。
(漫画ガロ 2002年7月号)